ノートパソコンに向かってこれから作るべき映画のことを書こうとしているのだが、なかなか思うように進まない。左側の隣の席では主婦のグループがお会計を済ませるべく立ち上がった。別々のお会計を済まなそうにお願いして、主婦のグループは外へ出た。僕から向かって右側の席では中国語のレッスンをしている中年の男性と女性がいて、講師らしい女性が、たどたどしく喋る男性の一言一言に耳を傾けている。男性はかなり熱心にレッスンを受けているようで、会話の中で気になったところを逐一質問している。充実したやり取りのように見受けられる。
ちょうど今、外国人らしい長身の男性と若い日本人の男女の計3人が店に入ってきた。離れた席に座っているのでどんな目的で、どんな時間を過ごそうとしてこの店に入ってきたのかは分からない。もしかしたら外国人ではないかもしれない。さらにその向こう側の席には僕と同い年くらいの男性がいて、彼はノートやら雑誌やらを広げて何かをしている。僕はとにかく、周りのそういう状況が気になってか、この店に来る前に想像していたようには映画のことを考えることが出来ないでいる。
尿意を催したのでトイレへ行く。最近何故か、やたらと小便が近い。我慢していてもあっという間に辛くなるので、ちょっとでも催したらすぐトイレへ行くようにしている。
これから僕が作ろうとしている映画がどのようなものになるのか、僕は知らない。分からないというよりも知らないとい方が近い。色々と僕ひとりの頭の中で考えていても何にもならなくて、ということは考えていないというのと一緒なんではないかと思い、喫茶店へ来て無理矢理にでも紙とかパソコンとかに出力することで考えを先に進めようと目論んでいるわけだが全然上手くいかない。そもそも考えるというのはどういう状態なのかというと、実際に何かを書いたり他人と話したりすることで、自分がそれまで生きた経験やそれに伴って形成された態度というのが表面化して、それが自己に確認されることでその先にある、自分にはまだ知覚されないが自分が向かおうとしている領域へ近づいたり、そういったものの総体をシャッフルすることが出来る。それがおそらく考えるということで、そういうことをする前に起こっている一人で考えるという行為は、言葉にはならない自分の経験や態度というのを、そのまま強化する時間に過ぎない。だから、他者や何らかの対象の存在によってしか、自己の確認もその更新も発生しない。
それが上手くいかないというのは、ノートパソコンを前にして、これから作るべき、考えるべき映画が何なのかを、作り出すよりも前に考えて知ろうとしているからだろう。それは分かっているのだが、いざ書き出すとこれは違うはずだと思ってしまう。まだ存在しないものに対して違うも正しいもないはずなのだが、違うと思ってしまうとどうにも先に進めることが出来なくなってしまって上手くいかない。
グルタミン酸とかはうまみ成分と呼ばれているが、グルタミン酸そのものとしては人体にどのような効能があるのだろう。少なくともそれがうまみ成分として注目されている間は、うまみ成分を持つものとしてしか認識されない。もしグルタミン酸に「うまみ成分を持ち、それを含む食べ物、料理にうま味を与える」という効果しかないのであれば、それがそのものとして存在する意義はうま味を感知する生物の食への欲望を満たすためとして見出される。しかし人間がうま味成分を旨いと感じるということはそれを必要としているからに違いなく、食に対してただただ満たされるということのためにうま味を旨いと感じるというよりは、何らかの人体への作用があるからこそ旨いと感じ、それを求めると考える方が自然だ。
ある存在が、別の何かに還元され消化されることなく、ただそれとして存在するということはあるのか。ただうま味を持つだけのうま味成分があり、それが人間に対してただただうま味を与えるという風にしか作用しないということはあり得るのだろうか。
かつて「遊び」と称して、ある空間、その瞬間をただ満たすことが出来た。ある時間を別の何かのために消費するのではなく、ただその時を充実させることが出来た。何かの欲望を満たすのでなく、ただ遊ぶために遊ぶことが出来た。同時にそれは、ある存在が、自身を不特定の他者に対して白日の下に晒すということでもある。それを可能にする唯一の手段である。