仮想的ひねもす亭

2009年6月24日水曜日

PFF

PFFアワード2009の上映のお知らせと共に、応募していた「ヒネモステ」の講評が届いた。

引用開始~

・『セリーヌとジュリーは舟でゆく』のことを考えていた。

・都内の郊外という風などことなくSFっぽい遠景と、衣装の色味がマッチしているようにみえました。ここ最近の日本の風景を観させてもらった気がします。

・手を開いてふらふら歩く男のさまがキャラクターを感じさせて、優れた演出だと思いました。

・唐突に出てくる銃が好き。

・川から海へ。ずっと続いていく感覚が心地よかった。

・都市でも田園でもない郊外の自然のざわめきがきこえる。監督は感覚のとても鋭敏な方、とくに耳の良い方なのだろうと思いました。撮り続けてほしい。男が疾走するシーンも美しいです。

~引用終わり

去年送った「ララバイ」の評があまり良いものではなくて(内容は忘れた)、「ヒネモステ」は一次にも通らなかったから、PFFの封筒が届いた時はちょっとあまり見たくないなあという感じだった。それでもそんなこと気にしてないよ、という風にクールに封を開けたら勇気付けられる言葉があって、何にせよ反応があるというのはいいことだなあと思い直した。スクリーンに像が投影されているだけではまだ映画はどこにもなくて、そこに視線を投げかける他者との関係によって初めて映画が生まれ出す。PFFには「ヒネモステ」のDVテープを送っただけだから、それが果たしてどういう風に映画として発生し得たのか僕には知る由もなく、こちらから反応を確かめることも出来ない。だがこうして、ただ送っただけのDVテープによってどこか僕の知らない所でいつの間にか「ヒネモステ」が存在した、ということが確認されるというのは、入選云々以前にそれだけですごく価値のあることだ。もちろん入選してそれによって普段よりも大きい会場で色々な人がいる空間で映画が上映されるのを期待していつも作品を送っているわけだけれど、それはつまり、規模が小さくてもとにかく『「ヒネモステ」があった』、ということのために、「ヒネモステ」が作られたということでもある。

2009年6月22日月曜日

「ザ・プロフェシー」、「レスラー」 ネタばれあり

kamiproという格闘技雑誌の携帯サイトの抽選に当たって、土曜日は「スーパーハルクシネマ選手権」というkamiproのイベントに行ってきた。音楽家でkamiproにもよくインタビューにて登場する菊地成孔氏による船木誠勝が監督した「ザ・プロフェシー」についてのトークもプログラムにあり、僕としてはそれが目的で楽しみにしていたイベントだ。事前に上映は告知されていなかったがおそらくあるだろうと踏んでいたところ、無事上映されて、貴重な時間を過ごすことが出来た。

「ザ・プロフェシー」は船木が98年にノストラダムスの大予言をベースにシナリオを書き、格闘技を引退して役者をやりつつ映画の勉強をして、03年に撮影して完成させた映画だ。完成後、20名程度のファンイベントにて公開されたのを最後に、日の目を浴びることはなかった映画である。kamiproにおける菊地氏のインタビューによりその存在が発覚し(偶然手に入れたという菊地氏は有名な作品だと思っていた)、続けざまに監督インタビューという形で船木自身への取材が紙上に掲載され、極めて一部の層に絶大な関心を集めていた作品でもある。

賛美歌のような音楽に雲の映像やマリア像のアップ等が挿入されるタイトルバックから映画が始まる。中年の男の狭苦しい職場へ、彼が送った招待状を手に彼の昔馴染みの友人たちが一人一人やってくる。一人増えるごとに他愛のない会話は持続していき、全員集まったところで男は「明後日地球が滅びる」という予言を伝える。男は「いずれ死ぬのならば、何か大きな痕跡を残したい」と宣言し、友人たちを銀行強盗に誘うのだが、誰もその話には乗らず、皆帰ってしまう。翌日、陰から友人たちが見守る中、男は一人銀行へ乗り込むもすぐさま警備員に捕獲され、留置場に拘束される。その夜、日付が変わる瞬間を公園で過ごす友人たちは、携帯電話で午前0時を告げる時報を聞いた後、それぞれの帰途につく。エンドロールと共に、おそらく「地球滅亡の日に何をするか?」という質問に対する出演者たちの生の声が映像と共に流れ、主人公の男がアップで「~~は人間の定説である」(内容は忘れた)と喋って映画は終わる。

上映後、この映画に対する指摘として菊地氏の言った「野生の知性」という言葉に深く共感した。この「ザ・プロフェシー」という映画が何に属しているのか僕にはさっぱり分からない。決して投げやりな自己顕示欲に満ちた映画ではなく、ジャンルに振り切れているわけでもなく、過度に宗教的、思想的であるわけでもない。「明日、また生きるぞ」という言葉にあるような船木の死生観が異様な形で表出する映画ではあるが、前半部分の台詞のやり取りなんかはふざけた下ネタやリアリティの欠片もないプロモーターやディーラー、プロレスラー、やくざらの自慢話ばかりである。船木はこの映画を作るときに参考にした映画として「12人の怒れる男」をあげたが、見ているわけではないと言う(真顔で言ったのだと思う)。様々なテーマや思想、思いつきがそのいずれにも振り切れないバランスでVシネっぽい安い映像で持続する。これが、にもかかわらず、全く笑えない。笑わせようとして書かれたんではないかという部分に関しても笑えない。しかもそういう「笑えない」に対する嘲笑の感覚すら起こらない。重要なのは、船木の死生観に満ちてはいるが、それだけではないという点。「12人の怒れる男」を見ていないのにも関わらず疑いなしに参考にする感性にある。これまでにも何本か自主映画を作った船木が、より映画監督らしく過去作品を参考に映画を作ろうとするのだが、その参考にする映画自体は見ないのだ。普通に映画を作ろうとする知性はそれに耐えられない。そして、何か思想があるとして、それをどのようにしたら最も効率よく他者に訴えかけることが出来るかといった打算が微塵もない。ただ剥き出しの船木誠勝なのだ。狂気を抱え独自の人生を歩み、映画の文脈に交わることもなく、あくまで自身が触れ、体験して得た「野生の知性」による思考の運動が映画として発生している。主人公の男は結局トチ狂った男として収容され、友人たちはおそらく普通の日常に戻るだろう。「明日死ぬかもしれない」という疑いは晴れ、主人公の男の誘いに乗らなかった彼らは勝者となるはずだ。予言に惑わされ、捕まってしまう男は敗者となるはずだ。しかしそういった二元論に映画は執着しない。予言はその効力を失ったようでいて、なお、機能しているということを忘れさせない。

「ザ・プロフェシー」を見た後のプログラムも楽しかったが「ザ・プロフェシー」が刺激的すぎて、楽しいけどぼんやりしていた。ただこのイベントは定期的に継続したいとのことで、毎回船木の映画を上映するつもりらしく、次も是非行きたいなあと思った。

翌日の日曜日の夜、「レスラー」を見た。劇場で映画を見るのは少ないけれど大体はあまり情報を仕入れないようにしていて、予告編も見ないで行くのがほとんどで(見るとうんざりする)、今回もそういう風にして行った。すごく面白かったのだがやはりというか前日の船木の映画の刺激が強すぎて色々引きずっていて少し味気ない感じだった。底辺に近いレスラーの物語で、波乱も含めた王道の物語そのものがプロレスを感じさせる丁寧な作りであり、当然のように感動した。ただどうしても試合の場面に感情移入が出来ない。生活の場面と試合の場面で、カメラのリアリティの水準が変わるのだ。試合以外の場面においては半ばドキュメンタリーのような演出がなされ、そのように撮影されている。特にミッキー・ローク演ずるランディが歩くのを後ろから追うという構図は多用される。「現実に存在し、意思を持って移動するランディ」を、「存在するカメラ」が後ろから追うことで、演出として「僕らの現実と同一線上にある世界」というリアリティを生み出す効果があったと思うのだが、それと同じ距離感でリング上の試合を撮るのである。これは皮膚感覚的に違和感があった。そもそもそんなところでカメラを構えることが出来るわけがないという位置で試合を撮っている。カメラの距離感は変わらないが、「存在するカメラ」は「存在しないカメラ」となり、それによってこれまで信じていたリアリティの水準が急激に変更される。プロレスの芝居じみた動きというのは実際の肉体の躍動があって始めて独自のリアリティを生み出すわけで、そこに芝居じみたカメラを向けてしまったらせっかくのパフォーマンスが台無しだ。そもそもアップばかりで彼らの存在としての迫力が感じられない。そんな風に試合にあまり乗れなかったのが残念だ。

最後の場面には複雑な思いがした。ランディの最後のラム・ジャムのあと、彼の生死は描かれない。彼はしかし生きなければいけない。プロレスを失っても、這いつくばって生きるべきだ。三沢が死んで、あまり三沢の事は知らないし試合も見たことがなく、何となく存在を知っていただけだけれど、ただそれだけなのにすごく悲しかった。リング上であのような形で倒れ、選手も観客も大声で呼びかけて、それでも立ち上がらずに最後を迎えた。相手選手のことは全く知らなかったがそれでも彼の事を考えると辛い。リング上での死は全く美しくない。形だけの物語性だけが美化され、そこにあったはずの現実が見過ごされてはならない。映画の最後で、最後の力を振り絞ってラム・ジャムをするランディを描くのは、映画として極めて王道のプロレスだ。しかしその王道をぶち破ってでもその先を描く勇気はなかっただろうか。その踏み出した一歩の先にこそ「レスラー」の可能性があったのではないか。

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2009年6月19日金曜日

腰痛のあるなし

特別何かをしたわけではないのだが、腰の痛みが少しずつ改善してきた。整体も考えたが改善していく気配は既にあったので、様子を見てからにしようと思いまだ行ってはいない。今も当然痛いわけで、痛くない状態とは比べ物にならないほど痛いはずなのだが、少し慣れてきたからか腰痛のない状態がどんなだったか咄嗟にイメージできないくらいになった。

腰痛になったことで腰痛ではない普通の状態というのが今の僕には可能性としてしか存在していない。それと同じように、この腰痛が治ったらその時から腰痛はその可能性として存在することになるだろう。それは「腰痛がない」ことにはならないし、今の僕にとっての腰が痛くない普通の状態というのは「ない」ということでもない。

腰痛になったことによって腰痛ではない普通の状態が可能性として浮かび上がるのだが、その普通の状態というのは普通の状態になっている時は自覚されない。それに対して腰痛の時はとても痛いから腰痛であるということがよく分かる。腰痛になって普通の状態を意識するというのは自然な反応なのだが、普通の状態において普通の状態を自覚することはあまりない。

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2009年6月17日水曜日

腰痛

最近腰が何となく痛い感じが続いていて、特に悪化もしていなかったからほっといていたら、今日ガス台の下のシートを取り替えていたところでいつの間にか痛みが激しくなって、自由に身動きが取れないような状態になった。それでも何とか夕食を用意しようと新しいシートと一緒に買った魚焼きグリル用の石をグリルの網の下に詰め、魚を焼き、鶏肉の入った野菜スープを作った。料理が終わったころには虫の息で、何とか机まで持っていってひぃひぃいいながら食べ、無理矢理洗い物を片付けて、椅子に腰掛けたところで動けなくなった。それから一年前のちょうど同じ時期に足を痛めたときに処方してもらっていた湿布が余っていることを思い出し、這うようにして押入れをあさり、湿布を手にとって背中に貼った。

ぎっくり腰ってこういうことなんだろうかと思ったが、作業中に突然電気が走るように痛みが出たという風でもなかった。本当に、全く気付かないうちにいつの間にか猛烈に痛くなっていたわけで、何が原因なのかさっぱり分からない。少しずつたまっていった腰へのダメージが一定のラインを超えて「すぅっ」と炎症になったということなのだろうか。

とにかく「ちょっと痛みが強くなった」とかいうレベルの悪化ではないので、この先が思いやられる。明日起きてどうなっているか、あまり考えたくない。

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2009年6月7日日曜日

「存在」すること

映画は如何に発生するか。映画を作らされる、あるいは作らざるを得なくなるような現実に生きているわけではない中で、どうやって映画を作るのか。既に存在する映画、映画らしさに向かってしか映画を作ることは出来ないのか。昨日、不夜城シネマフェスティバルというオールナイトの学生映画のプログラムに行ったのだが、その最中ずっと、そういうことやそれに関する色々なことを考えていた。

「ゴルゴダ」(根本飛鳥監督)という映画があったが、これは、あるゲイの部屋で彼とその愛人が情事をしていて、そこに本命の恋人が来てしまって、その恋人の方が愛人の方を裁くという内容の作品だった。撮影編集等の技術的な面や、感情を煽るような脚本、演出も犯罪映画風の台詞回しも冴えていて見た目はいいのだが、僕には何故途中からやってきた恋人の方が一方的に愛人を断罪するのかが分からず(家主は裁かれない)、結局はスリラーごっこの映画にしか見えなかった(実際そうだろう)。それだったら結局ハリウッドのスリラーを見た方が脚本も練られているし技術的にも優れているしずっと面白いわけで、そういう映画群と同じ舞台に立ってそれよりも面白い映画を作ろうという意識はないのだろうか。監督はコメントでやりたいことができてよかったということを言っていたが、その趣味性と様式への偏重からはミニチュアしか生まれない。(同じようなことを「青春墓場-問答無用-」(奥田庸介監督)という作品にも感じた。)

上記の他にも、映画的体験を捏造するために暴力とファンタジーに無邪気に頼る作品は多かった。「シンクロ・ナイズド・ラブ」(近沢キャンベル監督)、「ベイビー・コンプレックス」(篠原彩子監督)の2作には、映画の原動力になる装置としてファンタジーが用意されているわけだが、いずれも都合よく登場して勝手に機能する。監督の現実に基づいた個人的な体験や、それに端を発するであろう物語が、唐突なファンタジーによって簡単に展開されてしまう。それから描かれる痛みのようなものとかはもう茶番でしかなくて、やはり「映画を作る」ということで許される宗教じみた集団遊戯の場があって、内部に自己批判する視線を持たない。

「イエローキッド」(真利子哲也監督)にもそのような現実の枠を超えた装置が存在するが、エンターテイメントの枠の中でそれが緻密に構成されていた。「他人の想像でも自分で描くことで~~」みたいな台詞があって、それがこの映画の、監督を含めた幾層にも渡るメタ構造を要約していて、その提示がすごく滑らかで見ていて全く混乱しない。とはいえ最後はよく分からなくて、分からないことがあってもそれが何だったのか考えないことが多いので今もオチはよく分からないままなのだが、それにしても映画内におけるリアリティを持続し続けるこの作品の語り口はすごいなあとは思った。しかし何故血が流れなければいけないのか、何故祖母は認知症でなければいけないのか、それがやはり分からない。主人公とその周辺を描く上で、物語を推し進めるために選択され、配置されたのがそういった要素であるならば、あまりにも貧しい。見ている間は引き込まれて面白くて、見終わったらおしまい。そういう映画はいくらでもあるだろう。観客を意識するとかしないとかは些細なことで、学生映画とか自主映画という括りはそもそもおかしい。根本的に映画を作っているのならば、既にあらゆる映画の作り手と同じ舞台に立っている。それでもなお学生映画と呼ばれるものがあるとして、それが指向すべき方向があるとすれば、それは劇場公開される映画と同じようなものを作るのではなく、その先にある。あるいは、そちらではない先端にある。無数にある先端の、その先に目を向けるべきだ。

「硬い恋人」(森岡龍監督)は、始まって数分で登場人物が好きになってしまったから、もう何をしていても楽しいというか、彼らがしている他愛のない中二レベルの行動がそもそも楽しいので二重に楽しくて、本当に面白かった。暗くて見えなかったり、声が聞き取りずらかったりしたのだけれど演技が抜群に良いというか、存在として良いからあまり関係がない。カットがそれ自体で充実しているから、人物がいる、ということが際立つ。兄妹が住んでいる部屋があって、妹の方が部屋をプリンで散らかしてしまって、兄が帰ってきてそのプリンを何じゃこりゃという感じで拾って舐めて「あんめぇ」と言って、プリンの海に入っていってずっこけたカットで僕は感動した。最後の飛躍も鮮やかで嬉しくなった。なんと言うか、肯定を否定によってではなくただ肯定することで描くという態度が一貫してあり、それはきっと愛なのだ。

存在する、という点で何より際立っていたのだ「君とママとカウボーイ」(稲葉雄介監督)で、この映画も素晴らしかった。男が働いて、帰ってきて、食事をして、働いて、女の家に行って、というのが繰り返される中、男は終始無言であり、何を考え行動しているかは具体的に示されない。同じようなシーンが繰り返される中で次第に男の内面を想像するのでなく、行動する男が「存在」するのだ、という解釈になっていって、本当にただ、眼前に「存在」し続ける男を見続ける。ただそれだけなのだが、それはすごく豊かな時間だった。終盤、主人公の存在を脅かすものとして父親が登場し、その父親は如何にも演技くさい喋りをする。虚構の殻を被った父親は、案の定この映画にそうではないものとして「存在」していた主人公によって始末されるのだが、父親は結局死んでいなくて、手当てしてやって部屋で寝ている感じになっていたので何だか安心したのを覚えている。

つづく

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