kamiproという格闘技雑誌の携帯サイトの抽選に当たって、土曜日は「スーパーハルクシネマ選手権」というkamiproのイベントに行ってきた。音楽家でkamiproにもよくインタビューにて登場する菊地成孔氏による船木誠勝が監督した「ザ・プロフェシー」についてのトークもプログラムにあり、僕としてはそれが目的で楽しみにしていたイベントだ。事前に上映は告知されていなかったがおそらくあるだろうと踏んでいたところ、無事上映されて、貴重な時間を過ごすことが出来た。
「ザ・プロフェシー」は船木が98年にノストラダムスの大予言をベースにシナリオを書き、格闘技を引退して役者をやりつつ映画の勉強をして、03年に撮影して完成させた映画だ。完成後、20名程度のファンイベントにて公開されたのを最後に、日の目を浴びることはなかった映画である。kamiproにおける菊地氏のインタビューによりその存在が発覚し(偶然手に入れたという菊地氏は有名な作品だと思っていた)、続けざまに監督インタビューという形で船木自身への取材が紙上に掲載され、極めて一部の層に絶大な関心を集めていた作品でもある。
賛美歌のような音楽に雲の映像やマリア像のアップ等が挿入されるタイトルバックから映画が始まる。中年の男の狭苦しい職場へ、彼が送った招待状を手に彼の昔馴染みの友人たちが一人一人やってくる。一人増えるごとに他愛のない会話は持続していき、全員集まったところで男は「明後日地球が滅びる」という予言を伝える。男は「いずれ死ぬのならば、何か大きな痕跡を残したい」と宣言し、友人たちを銀行強盗に誘うのだが、誰もその話には乗らず、皆帰ってしまう。翌日、陰から友人たちが見守る中、男は一人銀行へ乗り込むもすぐさま警備員に捕獲され、留置場に拘束される。その夜、日付が変わる瞬間を公園で過ごす友人たちは、携帯電話で午前0時を告げる時報を聞いた後、それぞれの帰途につく。エンドロールと共に、おそらく「地球滅亡の日に何をするか?」という質問に対する出演者たちの生の声が映像と共に流れ、主人公の男がアップで「~~は人間の定説である」(内容は忘れた)と喋って映画は終わる。
上映後、この映画に対する指摘として菊地氏の言った「野生の知性」という言葉に深く共感した。この「ザ・プロフェシー」という映画が何に属しているのか僕にはさっぱり分からない。決して投げやりな自己顕示欲に満ちた映画ではなく、ジャンルに振り切れているわけでもなく、過度に宗教的、思想的であるわけでもない。「明日、また生きるぞ」という言葉にあるような船木の死生観が異様な形で表出する映画ではあるが、前半部分の台詞のやり取りなんかはふざけた下ネタやリアリティの欠片もないプロモーターやディーラー、プロレスラー、やくざらの自慢話ばかりである。船木はこの映画を作るときに参考にした映画として「12人の怒れる男」をあげたが、見ているわけではないと言う(真顔で言ったのだと思う)。様々なテーマや思想、思いつきがそのいずれにも振り切れないバランスでVシネっぽい安い映像で持続する。これが、にもかかわらず、全く笑えない。笑わせようとして書かれたんではないかという部分に関しても笑えない。しかもそういう「笑えない」に対する嘲笑の感覚すら起こらない。重要なのは、船木の死生観に満ちてはいるが、それだけではないという点。「12人の怒れる男」を見ていないのにも関わらず疑いなしに参考にする感性にある。これまでにも何本か自主映画を作った船木が、より映画監督らしく過去作品を参考に映画を作ろうとするのだが、その参考にする映画自体は見ないのだ。普通に映画を作ろうとする知性はそれに耐えられない。そして、何か思想があるとして、それをどのようにしたら最も効率よく他者に訴えかけることが出来るかといった打算が微塵もない。ただ剥き出しの船木誠勝なのだ。狂気を抱え独自の人生を歩み、映画の文脈に交わることもなく、あくまで自身が触れ、体験して得た「野生の知性」による思考の運動が映画として発生している。主人公の男は結局トチ狂った男として収容され、友人たちはおそらく普通の日常に戻るだろう。「明日死ぬかもしれない」という疑いは晴れ、主人公の男の誘いに乗らなかった彼らは勝者となるはずだ。予言に惑わされ、捕まってしまう男は敗者となるはずだ。しかしそういった二元論に映画は執着しない。予言はその効力を失ったようでいて、なお、機能しているということを忘れさせない。
「ザ・プロフェシー」を見た後のプログラムも楽しかったが「ザ・プロフェシー」が刺激的すぎて、楽しいけどぼんやりしていた。ただこのイベントは定期的に継続したいとのことで、毎回船木の映画を上映するつもりらしく、次も是非行きたいなあと思った。
翌日の日曜日の夜、「レスラー」を見た。劇場で映画を見るのは少ないけれど大体はあまり情報を仕入れないようにしていて、予告編も見ないで行くのがほとんどで(見るとうんざりする)、今回もそういう風にして行った。すごく面白かったのだがやはりというか前日の船木の映画の刺激が強すぎて色々引きずっていて少し味気ない感じだった。底辺に近いレスラーの物語で、波乱も含めた王道の物語そのものがプロレスを感じさせる丁寧な作りであり、当然のように感動した。ただどうしても試合の場面に感情移入が出来ない。生活の場面と試合の場面で、カメラのリアリティの水準が変わるのだ。試合以外の場面においては半ばドキュメンタリーのような演出がなされ、そのように撮影されている。特にミッキー・ローク演ずるランディが歩くのを後ろから追うという構図は多用される。「現実に存在し、意思を持って移動するランディ」を、「存在するカメラ」が後ろから追うことで、演出として「僕らの現実と同一線上にある世界」というリアリティを生み出す効果があったと思うのだが、それと同じ距離感でリング上の試合を撮るのである。これは皮膚感覚的に違和感があった。そもそもそんなところでカメラを構えることが出来るわけがないという位置で試合を撮っている。カメラの距離感は変わらないが、「存在するカメラ」は「存在しないカメラ」となり、それによってこれまで信じていたリアリティの水準が急激に変更される。プロレスの芝居じみた動きというのは実際の肉体の躍動があって始めて独自のリアリティを生み出すわけで、そこに芝居じみたカメラを向けてしまったらせっかくのパフォーマンスが台無しだ。そもそもアップばかりで彼らの存在としての迫力が感じられない。そんな風に試合にあまり乗れなかったのが残念だ。
最後の場面には複雑な思いがした。ランディの最後のラム・ジャムのあと、彼の生死は描かれない。彼はしかし生きなければいけない。プロレスを失っても、這いつくばって生きるべきだ。三沢が死んで、あまり三沢の事は知らないし試合も見たことがなく、何となく存在を知っていただけだけれど、ただそれだけなのにすごく悲しかった。リング上であのような形で倒れ、選手も観客も大声で呼びかけて、それでも立ち上がらずに最後を迎えた。相手選手のことは全く知らなかったがそれでも彼の事を考えると辛い。リング上での死は全く美しくない。形だけの物語性だけが美化され、そこにあったはずの現実が見過ごされてはならない。映画の最後で、最後の力を振り絞ってラム・ジャムをするランディを描くのは、映画として極めて王道のプロレスだ。しかしその王道をぶち破ってでもその先を描く勇気はなかっただろうか。その踏み出した一歩の先にこそ「レスラー」の可能性があったのではないか。
ラベル: 映画