仮想的ひねもす亭

2010年7月25日日曜日

翔んだカップル

今日フィルムセンターで見た翔んだカップル。相米監督の映画は台風クラブを見ていて、その時になんてすごい映画なんだと思ったけれど、それ以降相米映画に触れることがなかった。今回ので二本目ということになるが、大体過去見た映画のことはすぐに忘れてしまうので、はじめて出会ったような感覚だ。本当に素晴らしい映画で、鑑賞後の吉田君と諏訪さんの対談にもあったがこの映画にはエピソードというエピソードがない。ないというか、あるのだけれど、そこに関心がないというか、あくまでそこにいる人物を、その空間でどのように見るか、何をするか、という現場での問いが原動力となって作られた映画という印象。自分が何を見ているか、それについてどう考えることができるか。どのように信じ、アクションできるか。バードシットでも感じたが、ホンに対するある種のラフな姿勢は書かれていることの限界をヒョイとジャンプできる。フィルムが感光する瞬間に発生し、生まれ続ける誰も見たことのない映画の断片。それを可能にする態度と勇気は何だったか、今一度考えるべきだろう。
俳優、特に主演の少年が素晴らしかった。名前は忘れてしまった。すぐに調べることはできるのに、だからこそ気になった時に調べればいいやという気がして後回しになるのだが、今はおじさんで、俳優の人のはず。で、そんなことはいいとして、居間で、薬師丸ひろ子とユウスケという子が言い合いをする様子を長まわしでうつしているカットがあって、ユウスケは最後にソファにでんぐり返しでダイブして、エビぞって台詞を言うシーンがある。あるいは、薬師丸ひろ子がゴミ置き場に突っ込んで倒れて、ユウスケが抱えて、二人立ち上がって歩き出し、やりとりをするワンショット。

ラベル:

2010年7月20日火曜日

&AND

明大前で久しぶりの&AND。およそ5ヶ月ぶりだったわけだがそれについてどうということもなく、普通に集合して、川部の駒沢大学で行われたカルチュラル・タイフーン2010のソーシャルシネマについてのディスカッションの話題を起点に、それぞれ話をした。大きな話題は昨年行われた豊島でのワークショップについて。撮る、撮られる関係について。メディアについて。話題と言っても、おそらくこれは僕の中で発生したテーマ。メディアというところが特に気になっている。撮る、見るフィールドが多様化していて、ハード的にも手軽に映像が扱える中で、映像そのものの価値がどのようなものであり続け、また、どのようなものになってゆくか。それは変化であり、拡張でもある。

そのあと刀祢平がうちに来て、どうやら彼はカンボジアで撮った多くの写真をwebで公開する方法について悩んでいる。写真を公開するのでも、htmlでレイアウトするんではなくFlickrなりPICASAなりPanoramioでやった方が効果的である。この効果的というのはたとえば作者自身のブログ以外にも、その写真自身が関連付けられた他要素によって広がり得るということで、撮った写真が人の目に触れる機会が圧倒的に増える。その時その写真においての”作者”というのは、写真の”撮影場所”、”使用カメラ”、”日時”等のタグと共にメタ情報の一部となる。

日記をしれっと再開。近々webサイトも大きく変えます。

ラベル:

2010年1月21日木曜日

ガストも暑い

通勤時、帰宅時の電車内で昨日買った青木淳悟の「四十日と四十夜のメルヘン」を読んでいたらすごく面白くて、続きを早く読みたくて明大前に着いてからの帰路の途中にあるガストに立ち寄った。昨日の喫茶店みたいに暑くなければいいなと思って入ったらやっぱり暖房が過剰に効いていて嫌気が差した。そういえば昼に豊洲に行ったときに太陽のトマト麺に立ち寄ったのだが、食べ終わったらすぐ出られるように入り口近くの席に座ったにも関わらず半袖の店員に「奥のほうが暖かいですよ」と席の移動を促され、僕はまんまと移動してしまっていた。半袖で平気な店員が何故、外仕様の厚着をしている僕に対してそんなことを言えるのか。どういうつもりで言っているのか。善意なのだろうが今日は暖かいのでやめて欲しい。そんなふうな事を思いながらも流されてしまったわけだったので、ガストでは、店に入る前は「もし暑かったら出よう」と思っていて、しかし普通に入って、「暑いなあ」と思いながら普通に席に着いてしまって、自分の意志の弱さに嫌気が差した。暑いとはいえせっかく入ったのだからせめて表題作の「四十日と四十夜のメルヘン」を読み切るまでは居座ろうと思い、じわじわと汗が染み出すのを耐えながら読み進めたらカルピスとアイスコーヒーを一杯ずつ飲む間に読み切ってしまった。流石に暑かったので収録されているもう一遍の「クレーターのほこりで」には手を出さずに席を立った。会計でドリンクバーが390円と言われ、330円だと何故か思っていたのでそんなに高いのであればもう少し飲んどけばよかったと後悔した。

2010年1月20日水曜日

喫茶店

今日は早めに帰ることができたので代田橋の本屋に立ち寄った。気まぐれでピューと吹くジャガーと少し気になっていた青木淳悟の小説を買って、ちょっとだけ読もうと思って駅近くの喫茶店に入った。今日一日暑くてしょうがなくてうんざりしていたのだが、その喫茶店内も真冬日と同じように暖房を効かせていて暑かった。iPhoneをいじっていたらいよいよ我慢できなくなって、コーヒーを飲み干してすぐに店を出た。そういえばこの前友人と行った焼肉店では、入り口近くの席に案内されてしまい、すきま風が強くて焼肉を食べているにも関わらず寒い、という状況だった。今日の喫茶店の場合は割と暖かいのに暖房を効かせすぎていて余計暑いという状況だ。エコとかそういう以前の問題で後者は無駄だ。汗をかいた状態で、普段より暖かいとはいえ普通に寒い冬の屋外にでなければならないハメにになる。しかも今日は釣銭を間違えられて100円損するところだった。総じてどうというわけではないのだが少し不満だ。

2010年1月15日金曜日

中間地点

今日も&ANDのwebサイト作りをした。昨年から続いていた仕事が一段落し、精神的にも余裕が出来てきて、帰宅しても間をおかずに作業へ向かおうという意識が自然と出てくる。今は主にarchiveの部分を充実させる作業をしていて、それは過去の活動をおさらいするという時間になる。僕は今、広告関係の仕事に携わっていて、日々の意識の大半はそちらに向けられているから、学生時から継続してきた映画制作なりそれに関わる活動や思考への目配せはしつつも、それを形にしようとか、発展させようとかいった具体的なビジョンはないことに気付かされる。
そもそも過去にそれはあっただろうか。必要なのだろうか。
目配せ程度の接続が、場合によって強弱しながら持続する限りどうということはないだろう。

ラベル:

2009年10月22日木曜日

花月

自宅の最寄り駅は代田橋なのだが電車の接続が悪い場合は笹塚で降りて歩いて帰る。遅くに仕事が終わった時なんかは自炊する気力もなく、途中にあるすき屋や花月によることが多い(他に選択肢がない)。それで、今日も遅めだったので飯でも食って帰ろうと思い花月によることにした。行くたびにバイトが違う人になっている店なのだが今日も新しい人になっていて、今までいた他の新人たちと同じように、相変わらず店主に怒られていた。

ラベル:

2009年9月29日火曜日

安全

松本人志はおそらく映画を作ることを必要としていない。「しんぼる」は、個として生きる松本人志を徹底的に覆い隠す。画面に登場する松本も、監督としての松本も、テレビに登場するタレントとしての松本人志であり、彼自身その領域を出ようとしない。かつらを被り、パジャマを着、無様な芝居をさらすことで、自身を安全な領域に隔離する。そしてタレント松本人志として一方的に映画と戯れる。難解風な作品を作る映画監督というステータスを得る。

彼だからこそそのように振舞うことが出来る。いわゆる映画、映画らしさを安易に持ち込まない。むしろ彼は、タレント松本人志が立っている場所から映画作りを始めている。松本人志だからこそ、それが出来るといえるだろう。胃モタレするような多くの作品群よりはずっと信頼できる映画だ。

しかし、「しんぼる」を構成する全てのカットはタレント松本人志という記号によって守られていて、映画は、彼個人を問うことを拒否する。そこに僕は歯痒さを覚えた。松本人志が映画を疑い、タレントとしての自身の存在に守られることなく、個としての松本人志を起点として映画作りを開始出来たとしたら、どのようなものになるだろう。「しんぼる」はまだ、リスクを負うことを避けている。

ラベル: